川邊:樋口さん自身は、作り手として大事にされているポイントはありますか?
樋口:家でその番組を観たいかってことです。疲れて帰ってきたときにテレビをつけて、観続けられるかってことは常に考えてるかもしれないです。
川邊:家に帰って観るモードっていうのは、樋口さんの場合はどういうモードなんですか?「あんまり難しいこと考えたくない」なのか「ただ笑いたい」なのか、いろいろあると思うんですけど。
樋口:「もしも僕が視聴者だったら観たいかな?」っていう考え方です。視聴者だったら観たいかなとか、もしサラリーマンで飲んで帰って終電で帰ってきたときに、「こんな小難しいこと聞きたいかな」とか、いろんなことを考えます。再現VTRでも、あんまりかわいくない子が出てたときって、あんまりワクワクしないじゃないですか。「俺だったら、家で観たときはもうちょっとかわいい子が良いなとか」、いろいろ素人の気分になって観ます。
川邊:ある意味プロ中のプロになっちゃてるわけじゃないですか。そのときに視聴者の気持ちになったり、あるいは番組を観るターゲットの気持ちになったりとか。どうやったらなれるんですか?
樋口:いま視聴者がいちばんテレビの細かいところを観ていると思うんです。だから「またこれやってるよ」という気持ちとか、そういうことを意識します。作っている人に余裕がないときって、他で何回もこのネタやってるんだけど、余裕がないから自分が最初だと思ってるんですよ。自分が視聴者だとしたら「またかよ」って思っちゃう気持ちがあるんで、そこは常に意識してます。
川邊:樋口さんの番組や作品は「楽しい」とか「笑い」がすごく重要そうじゃないですか。ご自身なりの方程式とかってあるんですか?
樋口:仕事にするようになったから、その法則みたいなのはあります。桂枝雀さんが言ってた言葉に、「笑いは緊張と緩和である」っていうのがあるんです。いわゆるお葬式で緊張してるときに、前の人が痺れて立てなかったときに、緊張が緩和される。ここに笑いが起きるんだよっていう傍観の笑いもあれば、さっきの「トイレのときって真顔だよね」という話もそうですけど「そうそう、俺もそう思ってた」という共感の笑い。あとは最近、本で読んだのが、『逸脱した無害』っていうもの。すごく逸脱してるけど、自分にとっては無害なこと。たとえば、人が道を歩いていて、いきなりマンホールに落ちる。逸脱してるじゃないですか。でも「自分にとっては無害だから面白いね」とか。
川邊:自分の中ではそういうお笑いのある種の定義があって、それをどんどん日常のことに変換して、番組作りを進める?
樋口:長いことやってたら、パターンは入っちゃってます。
川邊:今のいくつかのパターンというのは、普遍的ですよね。30年くらいやられていて、笑う側、視聴者側は変わっていない感じですか?
樋口:変わってきているのは、差別的なものは減ってきています。
川邊:ああ、減らされちゃってるというか。
樋口:そうですね。昔は人の頭叩くくらいは許容範囲だったんだけど、そこはダメだとか。世の中はちょっと変わっちゃいましたよね。
川邊:世の中もそうですし、台本があるだけで「ヤラセだ」って言われてしまったり、そういう窮屈というか、いろんなことが起きていると思いますが、そういった点はどう解釈されているんですか?
樋口:もし、そういうことで視聴者の気分を害すんだったら、よくないけども気にしすぎて自主規制したときに「視聴者はそうでもないよ」ってことあるじゃないですか。それは自分の中では貫くようにしています。むしろ局側の方が危惧しているんですよ。よく料理でも「ここから使うと腐ってて危ないから」ってものすごく削ぐじゃないですか。それと一緒で、「そこまで削がなくてもいいんじゃないの?」っていうとこまで削いじゃってるから、ギリギリまで考えます。どこまで大丈夫かって。
川邊:そこの要素は、特に素人とかだとありがちじゃないですか。やっぱり相当やりづらくなってますか?
樋口:昔はテレビと視聴者って共犯関係にあったり、利害が一致してたことがあったんですよね。「そこまでしても僕はテレビ出たい」っていう素人がいたし、そういったときに「そこまでしてくれよ」って頼めたけど。そこの共犯関係がちょっとずつ薄れて、テレビに対しての珍しさがなくなっているぶん、こっちが突っ込めなくなっているっていう部分はあります。
川邊:なんかこう、プロ視聴者が増えましたよね。「これは文句言っていいパターン」だとか「BPOに電話だ」とか、街頭インタビューでも皆さんものすごく上手じゃないですか?される側が。だから、「視聴者がすごいプロ化しているな」と。
樋口:それはテレビをずっと観ていれば身につくスキルですよね。
川邊:一方で小説とか映画とかは、自分でお金を払うコンテンツなので、もう少し表現が自由じゃないですか。なんで「そっちに行きたいわ」とはならないんですか?
樋口:「ものづくりであれば表現場所はどこでもいいな」っていうタイプなんですけど、やっぱり小説書いても自分の中でテレビにフィードバックされてるし、テレビで培ったものは小説にフィードバックできてるからその循環です。だからどこに行きたいというのは、ないかもしれないです。
川邊:さきほどからおっしゃっている法則とか変換の仕方は、テレビでも小説でも、ものづくりである限りそんなに変わらないですか?
樋口:変わらないです。ただその手法がテレビだとちょっと平易な言葉を使うけど、小説だともうちょっと文学に寄らないとダメだったりします。そのこだわりはわきまえないとダメだとは思っています。